オリジナルなんて存在しないとよく言われるが、それを否定する言説もよく見られる。典型的なものは「芸術家たちが生み出す作品のすべては過去の作品に影響を受けたものであるから完全なクリエイティビティというものは存在しないかもしれないが、アイデアの組み合わせは無限大であり独創的な作品も日々生まれているのだからそれをオリジナルと呼ばずして何と呼ぶのか」といったようなことだ。
しかし見方によっては完全なオリジナルは存在しないどころかこの世のすべては模倣品であると考えることもできる。決定論的な立場においては過去の成り行きが現在や未来を決めているのだから、過去の作品という事物だけでなく、育ってきた環境や人生で会ってきた人々、自身の身体の特徴など、文字通り全てのものが作品作りに関係している。すべての物事は所詮は決定論的に生産された過去の遺物でしかないから、「それ自体が生み出された『意味』はどこにも存在しない」といった結論が導き出される(ニヒリズム的な考えに陥りがちな私は少なくとも過去にそういう結論に達していた)。※決定論は量子力学的には否定されるのかもしれませんが。。。
ただ、決定論の「原因→結果」というプロセスの中ですべての原因を辿っていくと、ビッグバン(またはビッグバン以前に発生したこの世界の始まり)に行き着くだろう。そして、その”世界の始まり”に意味があるとすれば、意味あるものから生み出されたすべての事象である過去・現在・未来すべてのものに意味がある。一方、”世界の始まり”に意味がなければ、結局のところこの世のすべてに意味はないということになる。
そして、ビッグバンに意味があるのか・ないのかという議論は(”意味”の定義にも依るだろうが)水掛け論にしかならないと思う。だから、この世に果たして意味はあるのかという問いに対しての今の私の結論としては「意味があるかもしれないし意味がないのかもしれないし、どっちなのかは分からない」ということになる。その結論を考慮すると、自分探しのような個人的または普遍的な意味を求めるという営みは非生産的である行為であるように思える。親から生まれた瞬間のデフォルトが生きる意味があるのかないのか分からない状態であるなら、我々に出来ることは暫定的に”生きる意味らしきもの”を見つけていくしかないのかもしれない。そして暫定的な生きる意味というものを見つけ、それを持ち続けたまま己の魂を消滅させることができるとすれば、それ以上の成功は無いであろう。
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