美術館である画家の展示会を行うとき、作品がランダムに配置されることはまずない。基本的には(特に作者が既に亡くなっている場合は)学芸員によって作品の配置が決まり、こだわったライトアップがされ、入場価格設定がされ、世間一般に広告される(と思います)。その結果生み出された個展というひとつの空間は、画家本人が意図する者とは大きく異なった場所になってしまうことだってあり得る。できるだけ作者の思想を抑制することなく、むしろその思想を理解しやすくするために手助けするという価値を付加することが学芸員の仕事のひとつかもしれない。
この、作品と編集との関係は、美術館だけでなく、雑誌や音楽アルバム、はたまた広義的にはサッカーの監督や一般的な仕事などについても適用することができる。作品それ自体の価値が一次的なもの、編集後に誕生する作品の体系全体の価値が二次的なものであるとすれば、しばしば一次的なものだけが重要視されがちだが、それと同じくらい(あるいはそれ以上に)二次的なものも重要である。誰も作品が自由奔放に放り投げられただけの無法な展示会に価値を見出さない。
ところで音楽アルバムについても既出の通り、音楽自体の作者(アーティスト)と、音楽の順番やアルバムカバーなどを決定する者(エディタ)が存在する。アルバムにおいてはアーティストとエディタの関係は、美術館や雑誌その他諸々とは違い、アーティスト自身がエディタである場合が多い。仮にそうでなくてもアーティストの思想が大きく反映されたアルバムになることが多いと思う。アルバムは単なる音楽の寄せ集めではなく、その曲順やアルバムカバーの自体がアーティストの哲学なのである。
YouTubeや音楽サブスクで音楽を聴くことが主流になった現代においては、好きな曲を寄せ集めたプレイリストや音楽サブスクのアルゴリズムによってリコメンドされたプレイリストを聴く場合が多く(加えてシャッフル再生する場合も多く)、毎回ひとつのアルバムを順番通りに聴くことは稀であろう。その要因としては単純に好きな曲や人気な曲を聴いていたいという欲が働いていたり、忙しい日常の中でひとつのアルバムを通して聴くことが困難だからだと思われる。しかしそのような聴き方はアーティストが伝えたいことを十分に受け取り切れないかもしれず、もったいない行為だといえる。より作品を楽しむための「アルバムを聴く」という行為は再評価されるべきである。
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